大阪市中央区、地下鉄千日前線「日本橋」駅から徒歩約5分。国立文楽劇場があります。
文楽と呼ばれるようになったのは明治の終わりころ。それまでは、“操り浄瑠璃芝居”あるいは“人形浄瑠璃”と呼ばれていました。つまり“浄瑠璃”にあわせて演じる操り、すなわち人形芝居という意味。19世紀のはじめに、大阪の高津橋の近くに小さな浄瑠璃の小屋が開かれ、1811年には稲荷神社境内に出されるようになりました。この小屋の経営者は植村文楽軒という人で、明治5年(1872)に松島に移ってから、はじめて「文楽座」と正式に名乗ったのです。つまり、“文楽”は、実はこの人形劇を上演する劇場の名前でした。
第二次世界大戦の後、戦火を受けた劇場の中でまっ先に再興されたのが四ッ橋文楽座。昭和30年(1955)には、国は文楽を重要無形文化財に指定。昭和59年(1984)に、文楽の本拠である大阪に文楽のための国立劇場を開場、今日に至っています。つまり、文楽は大阪が生んだ世界に誇れる伝統芸能ということです。現在の劇場は、昭和59年に開館したもので、大小二つの劇場があり、753席の大劇場では、世界無形文化遺産に指定されている文楽(人形浄瑠璃)の公演を中心に演劇や舞踏などが、159席の小ホールでは、落語や漫才、浪曲などが演じられています。また、劇場ロビーの奥には展示室(無料)があり、文楽人形などが展示されています。文楽の公演がない時でも、気軽に立ち寄ることができますので、「文楽ってどんなものかな?」と思っている方は是非立ち寄ってみてください。
この展示室では訪問された方々に文楽の楽しみ方を教えてくれる文楽応援団の方々がいます。平成13年4月1日、国立文楽劇場友の会会員の中に生まれた、国立文楽劇場事業推進課所属の民間ボランティアグループです。
(ここは歴史街道スタンプラリーのスタンプ設置箇所です。7月25日から「歴史街道スタンプラリー2015」がスタートします。)
文楽ゆかりの場所・高津神社
高津神社
高津神社参道
大阪には文楽ゆかりの場所が数多くあります。
文楽劇場から東へしばらく行くと、都会の中にいるとは思えない緑の空間が。高津神社です。仁徳天皇を祀る社で、豊臣秀吉が大阪城築城の際、この地に遷したかとか。現在の社殿は、戦後に再建されたもの。参道両脇には桜の木が。春には見事な桜のトンネルになるのでは、と想像しつつ社殿へ。この神社は、古典落語「高津の富」「高倉狐」「祟徳院」の舞台として知られ、境内には「高津の富亭」があり、桂文枝一門による落語の寄席が定期的に開催されています。
また、この神社の祭礼の宵宮が文楽や歌舞伎・夏狂言の代表作「夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)」のクライマックスシーンの背景になっていることでも知られています。
世話物で一世を風靡・近松門左衛門
近松門左衛門の墓の入口
ひっそりとたたずむ近松門左衛門の墓
境内から公園のほうへと歩いていくと梅林が。梅のシーズンにも訪れてみたい場所です。都会の中の緑の空間。市民の方々の散歩コースのようで、ちょっとのんびりとした時間が流れています。
高津公園から中央区谷町8丁目へ。このあたりは寺院が多く残されています。かつてこのあたりに建っていた妙法寺というお寺に近松門左衛門の墓がありました。
元禄時代、一世を風靡した劇作家、近松門左衛門。文楽では「世話物」と呼ばれる義理人情の機微を美しい詞と優れたストーリーで描いた曽根崎心中をはじめとする数々の作品を世に送り出しました。
谷町筋の道路拡張のためお寺と一緒に大東市へ移ることとなったところ、移動すると国の史蹟からはずれるということから、この場所に残されることになったようです。
お墓は、ビルとガソリンスタンドの間に挟まれた、知らなければ通りすぎてしまいそうな一角にひっそりと建っています。
■周辺の見所
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■国立文楽劇場へのアクセス
情報提供/歴史街道推進協議会