世界遺産活動・未来遺産運動

第4回 厳島神社[1996年 文化遺産]

厳島神社[1996年 文化遺産]

■PROFILE
厳島神社禰宜
福田 道憲さん

1942年、宮島町に生まれる。高校卒業まで島で暮らし、‘61年、国学院大学神道学科に入学。卒業後、熊野那智大社に奉職し、‘71年から厳島神社。現在は禰宜を務める。宮島観光協会宣伝担当常務理事。

■お宮は子どもたちの遊び場だった

 父祖代々、厳島神社に奉仕してきた福田さんは、自身も神職として神社に仕える身である。また、宮島観光協会の宣伝担当としても、島の活性化に知恵をしぼる毎日だ。宮島に生まれ、幼い頃から身近に接してきた厳島神社は、福田さんにとってどんな存在だったのだろう。
「私は戦中生まれで、昭和20年代に子ども時代を過ごしました。当時、お宮さんといえば、日本中どこでも子どもたちの遊び場だったんですよ。私も夏は水着ひとつで家を出て、潮が満ちていればお宮の廻廊から飛び込んだり、甲羅干しをしたり。大鳥居のところまで泳ぐこともあったし、春には鳥居の周辺で潮干狩りをしましたよ」。
地元の子どもたちだけでなく、昔は本土側からも小学生が遠足で訪れ、アサリをいっぱい採って帰ったそうだ。昭和の頃までは、そんなのどかな風景がよく見られたという。少年時代はお宮で遊び、長じてはお宮に奉仕する福田さんにとって、厳島神社は人生の一部といってよいかもしれない。
「厳島神社のどこがいいかといわれれば、すべてです。東京の大学へ進学した後、よその神社に5年奉仕したので、島を出てからここへ戻ったのは10年ぶりでした。その間に見聞を広め、お宮を客観的に見られるようになった。それで、よけい愛着がわいてきたのだと思います」。

■自然とともにある建造物

海に浮かぶ厳島神社の鳥居

 厳島神社の起こりは推古元年(593)だが、平安時代後期の1168年に、平清盛によって現在のような海上社殿が造営された。極楽浄土を模したといわれ、寝殿造りの社殿にはさまざまな工夫が施されている。宮島周辺では干満の差が4mほどあるのに、床の高さが3.8mしかないのは、その顕著な例だ。潮が引けば大鳥居まで歩いていけるが、潮が満ちると、社殿や廻廊はあたかも海に浮かんでいるように見える。瀬戸内海を池に見立てたこのダイナミックな発想は、自然美と人工美を見事に融合させた。
一方で、日々の潮による劣化はもちろんのこと、雨風による被害も後を絶たない。平成に入ってからでも、大きな台風に3回も見舞われた。
「自然が相手だから、頑丈に構えておったら壊れます。ここは、自然をやわらかく受け入れるようにできているんです。廻廊の床は、海水の圧力を逃がすために、すき間を空けてありますし、風や波が抜けるよう側壁もほとんどありません。寝殿造りの庭に当たる平ひら舞ぶ台たいという場所は、ご本殿にまで波がいかないよう、波の力を弱めるいかだの構造を利用したといわれています。また、社殿は左右対称ではなく、廻廊の長さや角度がすべて違うんです」。
左右非対称にして形をいびつにすることによって、一方から強い風雨を受けても、ほかで支えられるのだという。柱が丸いのも、風や波の抵抗を逃がすためだ。すべてが、自然とともにあることを念頭に置いた、先人の知恵の結実といえる。

■ゴールのない駅伝ランナー

 自然との調和を求めた設計を、900年もの長きにわたって支えてきたのは、こまやかな管理と修理にほかならない。とくに廻廊を支える柱は海水に浸かるため、根元部分をひんぱんにすげ替えている。神社の象徴である海中の大鳥居も、現在は8代目だ。明治8年(1875)に建て替えた後、水に浸かる部分のみ昭和26年(1951)に取り替えたが、そろそろ主柱をまるごと建て替える時期にきているという。
「高さ16m、周囲10mもある主柱をつくるためには、樹齢500~600年のクスノキが必要となってきます。そんな巨木は、日本中探してもなかなか見つけることができません」。
それならばと、宮島千年委員会という地元有志の組織が、島のクスノキの種から育てた実生の苗を植樹した。宮島ユネスコ協会も参加して、2003年から数回に分け、国有林の一角に約200本の苗を植えた。これから先、枯れたり、大きく育たなかったり、曲がったりする木は何本もあるだろう。その中で、幸運にも陽光に恵まれ、まっすぐ育つクスノキがあったとしても、大鳥居の柱にするには少なくとも500年はかかる。
「宮島は内海で暖かいので、島にもクスノキはいっぱい生えています。けれど、鳥居に使えるような大木は、たいてい天然記念物になっており、伐ることができません。だから、植樹をした。現在の鳥居の建て替えには、とうてい間にあいませんが、いつかは島の木で鳥居をつくりたいという思いは、皆同じなんです」。
社殿を中心とする厳島神社と、前面の海、背後の弥山(みせん)原始林(天然記念物)の森林を含む区域431.2haが、世界遺産として登録されたのは1996年のことだ。登録前と後とで変わったのは、外国人の観光客が増えたことくらい。もちろん、福田さんたち神職の方々、地元の方々の思いにも、特別な変化があったわけではない。
「先祖代々伝えられてきたものを、後世に伝えていくという意味では、私たちはゴールのない駅伝のランナーみたいなものですよ。そういうつもりで、昔からやってきています」。 まさに世界遺産の精神そのままに、気の遠くなるような時間のなかで、厳島神社は守られてきた。

■芸能の盛んな開かれた神社として

観光行事とは別に、厳島神社に伝わる祭のほとんどは神職だけで行われる。ただし、旧暦6月17日の大潮の日に行われる管かん絃げん祭さいは別だ。御神体の海上渡御を目的に、たくさんの舟が繰り出す海の祭だ。 「いまは祭の期間が短くなり、舟の数も減りましたが、私が子どものころは1ヵ月くらいにぎやかでした。露店がいっぱい出て、お宮の裏手には歌舞伎小屋も建ちました。鳥居から沖の方まで、滞在する舟でぎっしり埋まり、乗っている人たちは舟伝いに移動するほどでした。いまと違って、昔は祭がいちばんの娯楽だったんです」。
舟で来た人たちは、廻廊で寝泊まりすることもあったとか。いまも管絃祭の期間だけは廻廊を開放しているそうだ。
「ここはそもそも、芸事が盛んな島なのです。平安時代に清盛公がお宮をつくられたとき、大阪の四天王寺の舞楽が伝えられました。その後、17世紀には海に浮かぶ能舞台もつくられました。そして、大衆の娯楽として歌舞伎が入ってきます」。
宮島は、古くは神職や僧侶でさえ住むことが許されなかった神の島。しかし、参詣者が増えるにつれ、鎌倉時代末期から人が住み始めた。そして、地の利のよさから流通・交易の拠点となっていく。信仰の島であると同時に、商売の島として栄え、芸能も根づいてきた。その開かれた空気が、福田さんの少年時代を育み、厳島神社はいまもなお人の集まるお宮として愛され続けている。

ユネスコ活動とは何かー宮島ユネスコ協会の取り組み

宮島ユネスコ協会 事務局長・濱岡 寛次

宮島の鹿

 宮島ユネスコ協会は、厳島神社の世界遺産登録を受けて、その5年後の2001年に発足しました。といっても、歴史的建造物については、専門の研究者や機関がありますので、それ以外のところで何か活動できないかと考えました。そこで、宮島の自然に関する活動をいろいろと始めています。
植物の観察会などのほか、現在はNPO宮島ネットワークと共同でシカの頭数調査を行っています。宮島は全島が禁猟区なので、シカが参道や町中にも現れます。頭数調査をすることで、行政機関が今後、対策を練るときの資料になればと考えています。
また大鳥居の用材として、宮島千年委員会が実施したクスノキの植樹にも参加しました。ただ、一帯がヒメボタルの生息地とわかったため、現在は立ち入ることをせず、苗の生育を見守っているところです。
世界遺産以外の活動としては、書きそんじハガキの回収を行っています。廿日市市内の全公民館と市役所の本庁と支所のすべて、計25ヵ所に回収ボックスを置いています。また宮島の大聖院さんで、毎年8月に「平和の鐘を鳴らそう」も実施しています。
世界遺産とは何か、またユネスコ活動とは何か、改めて会員とともに考えていこうと思っています。

※本内容は日本ユネスコ協会連盟の承諾のもと、転載しています。

新規会員登録

全国のあすたいむ倶楽部