銅の鳥居(発心門)
日本で花見といえば「桜」。全国に知られる桜の名所「奈良県吉野町」。奈良時代初めに、役行者(えんのぎょうじゃ)が金峯山(吉野~大峯)に修験の霊場を開き、その後、中世にかけ修験道のメッカとして隆盛をきわめました。吉野の桜の由来は、修験道の開祖役行者が、修行によって金剛蔵王権現を祈りだした時、その姿をヤマザクラの木に刻み、お祀りしたことに始まるといわれています。以来、花見のためにではなく、蔵王権現や役行者に対する信仰の証として、信者たちによって献木として植え続けられ、下千本・中千本・上千本・奥千本へと、約1カ月をかけて豪華絢爛に咲き乱れるおよそ3万本もの桜の名所となりました。絶頂の勢力を誇った豊太閤秀吉が、徳川家康、宇喜多秀家、前田利家、伊達政宗ら錚々たる武将や茶人、連歌師たち総勢5千人の共そろえで訪れた「吉野の花見」も有名です。
下から中、奥へと植えられた桜の木々、春の季節はもちろんですが、緑に染まる吉野の山もまた美しいものです。
修験道の総本山・金峯山寺
金峯山寺蔵王堂
吉野駅からケーブルで山上駅へ。修験道の根本道場・金峯山寺の総門・黒門をくぐり、急坂をのぼっていくと高さ7.5mの鳥居が建っています。発心門と呼ばれる銅の鳥居で、山上ケ岳まである4つの門(発心・修行・等覚・妙覚)の最初の門。修験道の行者たちはここから向うを冥土と見立て、ひとつ門をくぐるごとに俗界を離れ修行する決心を強めていきました。
銅の鳥居から登りの道をしばらく歩いていくとひときわ目立つ仁王門があります。修験道の総本山・金峯山寺の入り口です。金峯山寺は吉野山のシンボル。本堂の蔵王堂は正面5間、側面6間、高さ約34m、檜皮葺きの、東大寺大仏殿に次ぐ大きさの木造建築物で、奈良時代に行基菩薩が改修されたとも伝えられています。平安時代から幾度か焼失と再建が繰り返され、現在の建物は1592年頃に完成したものですが、堂内の建物を支える柱の大きさは圧巻です。
本尊は、高さ7メートルにもおよぶ蔵王権現像(重要文化財)の3体。右手を振り上げ、右足を高く上げ、左足で全身を支える姿勢に鮮やかな青色で、憤怒の表情をうかべています(平成27年の公開は、10月31日(土)~12月6日(日))。
http://www.kinpusen.or.jp/
さまざまな歴史を見てきた吉野山
吉野の歴史を見てきた吉水神社
吉野山は、歴史の節目、節目で重要な役割を果たしてきました。
7世紀、大化改新の中心人物であった天智天皇が亡くなったあと、天皇の弟の大海人皇子(後の天武天皇)と天智天皇の子の大友皇子との間で皇位継承問題が起こります。大海人皇子は吉野に潜行し、壬申の乱で兵を挙げました。
桜の名所として詠われはじめたのは古今和歌集で、その後も西行法師や松尾芭蕉が吉野の桜を愛で、この地を訪れています。
12世紀には、源義経が兄である源頼朝の追捕を逃れて、静御前や弁慶を伴い、吉野に入りました。さらに大塔宮護良親王が鎌倉幕府倒幕のために、楠木正成と呼応して吉野を城塞化し、兵を挙げます。また、建武の新政瓦解で追われた後醍醐天皇が、吉野にのがれ、ここで朝廷を開きました。
金峯山寺からさらに登っていくと、左手に吉水神社があります。もとは金峯山寺の格式高い僧坊でしたが、明治の神仏分離によって神社となりました。この神社には、源義経が弁慶らと身を隠した「源義経・静御前 潜居の間」や、後醍醐天皇の行宮であった「後醍醐天皇玉座」、豊臣秀吉が花見の本陣とした時の「太閤(豊臣秀吉)花見の品」などを、歴史的逸話とともに見ることができます。
そのほか、吉野山の奥にある金峯神社から奥へ約15分のところにある西行庵や義経の隠れ塔など、折り重なった歴史の足跡をみることができるのも、吉野の魅力です。
ケーブルを降りてからはずっと登り坂が続きます。バスを利用して奥千本まで登り、そこからゆっくりと雄大な景色や史跡をめぐりながらくだってくるのもお薦めです。
吉野山の眺望
吉野山の町並み
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情報提供/歴史街道推進協議会