第二十八回　あの日の美術館を忘れない「京都市美術館」

　6月になると思い出すことがある。社会人になったその年の秋に結婚式を挙げ、家内を神奈川県湘南の地から呼び寄せ、最初に所帯を構えたのが大阪北東部の茨木市であった。阪急電鉄京都線の茨木市駅に近く、周辺はまだ見渡す限り田園風景が拡がっていた。当時、東京の大手化粧品会社の仕事を任された印刷会社・関西支社の超多忙の課に配属されたばかりで、まさに日々仕事に追われながら連日東京へ出張中の二人の上司との連絡や電話で指示を受けながらの仕事の調整作業で、くたくたの毎日だった。
　それでも新人ながらの妻帯者の立場もあって、何としても泣き言は言いたくなかった。仕事の処理能力もスピードも劣っていることは、新人の自分自身が一番自覚していた。その頃、土曜日は全日出勤であり唯一の休日の日曜日も有無を言わずに、たまった仕事を処理し続けた。関西に誰ひとり知人のいない新婚の家内を残して会社にむかう日曜の朝は辛かったが、新人の未熟さゆえに遅れて溜りゆく目の前の仕事への精神的な負い目がたまらなく嫌だった。ただ、救いは知らない関西の地だが、家内と二人きりでささやかな生活が始まった事だった。
　夕食をとりながら片手にビールをもったまま睡魔に襲われ、床に落して割れたビンの音に慌てたこともあった。得意先の方と面談の場で無礼な居眠りも経験した。深夜の帰宅で倒れていた家内と傍で泣く一歳の娘を見つけた時は地獄だと思った。それでも全力投球のなかに、いつかきっと成長した自分を取り戻せると信じてとにかく走り続けた。時々「きっとだれかが、見ていてくれる」と自分に言い聞かせながら、心のいら立ちを静めたこともある。

梅雨をひかえて、疎水越しに京都市美術館を望む 　そんな日々にあって、年に一度の会社の6月の創立記念日は嬉しかった。平日なのにきっぱりと会社を休める喜びは格別だった。ちょうどその日、京都で開催中の『モネ展』を見に行く計画だった。当時の「特別展覧会」はまだ厳かに鑑賞するような意識があり、当日はジャケットにネクタイを締め、家内もワンピースに着替え、娘にも似合いの服を着せながらの絵画観賞となった。久しぶりの家族団欒の京都訪問である。6月初旬の抜けるような青空、清々しい疏水の流れと岡崎公園の新緑の木々と平安神宮の朱色の大鳥居が鮮やかに溶け合って、まばゆいばかりの古都が目の前にあった。平日の昼下がり、美術館はゆったりとして静かである。
　目の前いっぱいに展示された「モネの睡蓮」の作品群が気持ちを和やかにしてくれる。心ゆくまで時間を使っての鑑賞の時を持ち、ひさしぶりの落ち着いた時間に身をまかせながら美術館の玄関で家内と娘を待った。京都の町には、優しくそよ風が吹きわたっている。娘を抱きながら遅れて出てきた家内の笑顔が実に明るかった。手を伸ばすと、にこにこしながら肩越しに一生懸命かじりついてきた娘のちいさな手のぬくもりが今も残る。
　1973年6月4日、晴れわたった「京都市美術館」での『モネ展』。娘を抱き、家内と陽光にキラキラ輝く疏水沿いを歩きながら「あゝ、これが家族で手に入れた幸せなのか」と思った。私はいまでもあの日の美術館を忘れない。

　あれから40余年が経過した今日もあの岡崎界隈では多くの展覧会が開催され、たくさんの美術愛好家で賑わっている。「京都市美術館」では7月5日から没後初めての『バルテユス大回顧展』がはじまる(〜2014.9.7)。隣りあわせの「京都国立近代美術館」では上質な『上村松篁展』が開催されている(〜7.6)。近くの「京都文化博物館」では『黒田清輝展』(〜7.21)、「京都国立博物館」では『南山城の古寺巡礼展』(〜6.15)、そして9月13日からは待望の国宝50余点・重要文化財110余点を伴って、平成知新館が新たに開館することになっている。

※京都国立博物館の平成知新館オープン記念展「京へのいざない」（2014.9.13～11.16）には、ミュージアムぐるっとパスを利用すると、入場料無料（１回のみ）にて入館できます。