世界遺産活動・未来遺産運動

第1回知床2005年自然遺産

知床_2005年_自然遺産

■PROFILE
前斜里町長 午来(ごらい) (さかえ)さん

 1936(昭和11)年、開拓農家の3代目として斜里町ウトロに生まれる。‘67年~‘83年、斜里町議会議員。その間「知床100平方メートル運動」をはじめ、知床における自然保護運動の中心メンバーとして活動。‘86年、林野庁北見営林支局が知床国有林の伐採計画を発表するといち早く反対運動を展開。翌年、強行伐採後の町長選で初当選。バブル期にはさまざまなリゾート計画を阻止、知床の世界遺産登録を目指して尽力し‘05年に夢を実現させる。‘07年、5期20年にわたる町長職を勇退。現在も知床を拠点に自然保護活動を続ける。

■始まりは「知床100平方メートル運動」

強制伐採された木の切り株を見る午来さん
強制伐採された木の切り株を見る午来さん

 日本が高度経済成長に湧いていた1970年代、全国の海岸や河口は次々とコンクリートで塗り固められていった。知床半島の中ほどにある開拓地、岩尾別の土地の買い占めが始まったのはそのころだ。
「岩尾別は自然条件がとくに厳しく、開拓者は次々と離農していった。その跡地を観光業者や不動産業者が安い値段で買いたたいていたんです。このままでは知床が乱開発されてしまう。岩尾別の皆さんの力にもなってあげたい。何とかできないか。」
斜里町議員だった午来さんは、当時の藤谷豊町長とともに北海道庁にかけ合った。しかし、まるで取り合ってもらえない。そんな折、新聞でイギリスのナショナルトラスト運動を知った藤谷町長が、ある名案を思いついた。広大な離農跡地を100m2単位にして分譲する。売った土地は町が一括管理し、植林して森の復元を目指す、というものだ。こうして1977年、“知床で夢を買いませんか”をキャッチフレーズに「知床100平方メートル運動」が始まった。
「原生の森に還るのに何百年かかるかわからない。当時、そんな遥かな夢に向かって、行政主体で行動を起こした例はなかった。記者発表をすると、それはもうすごい反響でした。」
翌年には、町長が替わっても運動の主旨が変わらないよう、厳正な管理を義務づける条例を制定。そうした町の姿勢が信頼を得て、対象地の保全は予想より早い20年間で終了、4万9250人余りから5億2000万円もの寄付が寄せられた。まさに日本のナショナルトラスト運動の草分けとなり、その後は「100平方メートル運動の森・トラスト」として、現在も植林や保全の活動が続けられている。

■これ以上、1本の木も伐らせない

 「知床100平方メートル運動」が始まって10年、知床の森を守り育てる運動は全国的なうねりとなっていた。そんなとき、運動地に隣接する国有林を北見営林支局(当時)が伐採する計画が持ち上がる。5年間で原生の樹木1万本を伐り、ヘリコプターで運び出すという大がかりなものだった。
「町議をやめていた時期だったので、『知床100平方メートル運動』副本部長として、また一町民として議会に反対し続けた。でも何をいっても全然、相手にしてもらえない。あんな辛い思いをしたことはないですね」
全国でもさまざまな反対運動が起こり、多くのカンパが寄せられた。その一方で「森を守って何になる」「自然保護で飯が食えるか」といった意見もあり、当時の町長が下した結論は「伐採もやむなし」。次の町長選が2ヵ月後に迫っていた。このとき、地元の青年たちに推され、午来さんは町長選立候補を決意した。もはや政治的な解決しかないと判断したためだった。
‘87年4月14日、全国の自然保護団体が反対する中、樹齢200年を超えるミズナラなどの巨木500本余りが強行伐採された。その12日後の選挙で午来さんは、伐採賛成派の現役町長を破り、見事当選した。
午来さんは中学3年のとき父を亡くし、高校進学を諦めている。8人兄弟の長男として母を支え、農業や山仕事をする合間に、ひとり知床の山々を歩き始めた。やがて山岳ガイドの仕事もするようになると、案内した人たちは帰り際に必ず「知床の自然を大事に」といってくれた。「知床全体を守って行かなければ」という思いが芽生えたのは、大好きな山を通してだった。
「知床は原生林があるからこそ動植物が豊富にある。その恵みが川から海へ流れ、漁業が成り立ち、観光が成り立っている。私たちの生活の基本にある環境を僕は守っていきたい」
午来町長の誕生を受け、‘89年には林野庁が原生林の伐採を全面禁止に。結果的にこの強行伐採は、「伐採中心」から「環境重視」へと林政が大きく転換するきっかけとなった。
「人間が壊した自然を元に戻すのは、大変な時間とお金がかかります。でも、知床でそれができないはずはない。何のためにやるかというと、未来のため。この地球を長持ちさせるためです」 その思いが、やがて世界遺産へとつながっていく。

■“人の営みとともにある”自然遺産

 知床が道内4番目の国立公園に指定されたのは‘64年。このときから午来さんは、知床を日本一の国立公園にしたいと願ってきた。仲間を募っての清掃登山、自然保護団体「青い海と緑を守る会」(後の知床自然保護協会)の設立、また知床自然愛護少年団を結成して、地元の子どもたちが自然に親しむ機会もつくってきた。子どものときに知床の一部を肌で感じる経験は、将来きっと何かの役に立つという思いからだ。
‘92年、日本が世界遺産条約を批准した。翌年『屋久島』と『白神山地』が自然遺産に登録されたとき、午来さんは「次は知床だ」と考えていた。‘94年、国立公園化30周年を機に、半島を南北で二分する斜里町と羅臼町で協力して登録を目指すことに。以来11年の努力を経て2005年7月、ついに世界自然遺産『知床』が誕生した。
「流氷によって海と陸の豊かな生態系が絶妙なバランスで関わり合っている点が、高く評価されました。そのため、海岸から沖へ3キロが漁業制限区域になった。だから世界遺産への登録は、羅臼と斜里の町民の皆さん、とくに漁業者の方々が前向きに理解してくれたおかげです。やっぱり山が元気だから、昆布も育つし魚も集まる。川の水がそれを支えてくれている、と漁業者の皆さんは知っているんです。」
漁業や観光を含めて、遺産エリアの中では現実に人が暮らしている。また、すでに伐採されてしまった土地への植林も連綿と続けられている。
「僕は初め『知床』を自然遺産ではなく複合遺産にできないかと考えていました。いちど人間が壊したエリアを原生の森に戻す、そういう“運動”も含めての遺産なんだと。」
自然と正面から向き合おうとすれば、“百年単位のものさし”が必要だという午来さん。大いなる原生林で育まれたこの感覚が、世界遺産『知床』の人と自然をバランスよく織り成している。

基本は知床とともに生きる町民の存在

知床ユネスコ協会 会長・鈴木 眞吾

知床100平方メートル運動ハウスの看板

 斜里と羅臼、両町民の何十年にわたる自然保護活動の一環として2009年2月、知床ユネスコ協会は誕生しました。現在、約300人の会員がいますが、あくまでも町民を中心とした活動を目指しています。斜里町と羅臼町は経済や生活の行き来はほとんどありませんが、「知床とともに生きる」という共通意識で結ばれています。いかに両町で協働していくかが課題です。
今年は10月に北海道ブロック・ユネスコ活動研究会を知床ユ協主管で実施する予定です。
わずか設立2年目の大役ですが、町民との絆を大切にし、子どもたちにも大勢参加してもらうよう知恵をしぼっています。基調講演は旭山動物園の坂東元園長を予定。また自然保護団体で活動する子どもたち、高校生や知床財団らの発表から、世界遺産『知床』をともに考える場にしたい。
今後は地元にとどまらず、町を超え、国境を越えて、知床財団や知床博物館をはじめ知床を守ってくれている人たちと世界をつなぐ役も担えれば、と願っています。

※本内容は日本ユネスコ協会連盟の承諾のもと、転載しています。

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