伊勢神宮への参拝者でにぎわう伊勢市は、三重県の中東部に位置する。周辺には伊勢志摩国立公園の海辺のリゾート観光地があり、海の幸、山の幸にも恵まれ、京阪神や名古屋方面からの観光客が多い。河崎の町は室町時代の中ごろに勢田川のほとりを埋め立てて田畑にし、原野を拓いて宅地を造成して生まれた。伊勢市北部を流れる勢田川を利用した水運によって、戦国時代末から本格的に商業の町としての機能を整えはじめ、安土桃山時代に伊勢神宮周辺の経済の中心地となった。江戸時代には大きな問屋街へと発展し、明治、大正時代を通じて商人の町として繁栄、昭和時代初めまで商業の中心としてその機能を保ち続けた。
更新日:2019/02/19続きを読む兵庫県のほぼ中央に位置する生野町は播磨方面からの但馬の玄関口で、古くから生野銀山で知られ銀山とともに栄えてきた鉱山の町。生野町といえば「生野銀山」と言われるほど銀山の知名度は高い。生野銀山は平安時代初期の大同2年(807)に発見されたと伝えられているが、裏付ける資料がなく正確な時期は不明。本格的な採鉱は戦国時代の1542年で、その後、織田・豊臣時代、江戸時代に銀山開発が盛んに進められた。江戸時代は佐渡金山、石見銀山と並んで徳川幕府の財源的な存在だった。
更新日:2019/01/22続きを読む第77回でも記したが、歴史街道計画では歴史の現場に直接触れる歴史観光を広めるために、伊勢~神戸間のメインルート以外に、地域の特徴を生かした3つのネットワーク①古代史のまち②紀伊半島のまち③戦国~江戸時代のまちを設定している。「古代史のまち」ネットワークは、難波宮や仁徳陵古墳、古市古墳群など古代の遺跡が集積する大阪南部と大陸からの文化の入り口であった丹後半島周辺をめぐる。
更新日:2018/12/27続きを読む徳川幕府が1858年に欧米5カ国と結んだ修好通商条約によって、1867年に瀬戸内海最大の貿易港である兵庫港を開港することになっていた。兵庫港は奈良時代から「大輪田の泊」と呼ばれ、1180年、福原に都を遷都した平清盛によって対宋貿易の拠点にするために大改修された。
更新日:2018/12/06続きを読む室町幕府の衰退で戦国大名が台頭し、織田信長から豊臣秀吉による全国平定、秀吉亡き後の関ヶ原の戦で徳川家康が天下を取って江戸時代を迎える。天下泰平の江戸時代約260年間の後、幕藩体制を覆す明治維新によって日本は近代国家へと歩み出す。
更新日:2018/11/15続きを読む桓武天皇の時、都は平城京から長岡京を経て京都・平安京へと遷った。ここから平安時代が始まり、勢力を強大にした藤原氏を中心に華やかな貴族文化、王朝文化が栄えた。仏教も盛んになり京都に大寺院が建立され、和歌や源氏物語、伊勢物語などの文学も華開き、名作が今日に伝えられた。
更新日:2018/11/01続きを読む飛鳥、藤原京時代が終わりを告げ、都が奈良・平城京へ遷って天平文化が華開いた。東大寺をはじめ南都七大寺など多くの寺院が建立され、正倉院の宝物など仏像、絵画、工芸品にも優れた遺産を残し、古事記、日本書紀などの史書も編さんされた。律令による国家制度、天皇制が確立した時代で貴族社会の基礎が形成され、藤原氏が勢力を伸ばしてきた。
更新日:2018/10/18続きを読む伊勢から大和にかけての地域に残る歴史遺産は、いわゆる古代社会の祭祀(さいし)に関係するものや律令国家に関わるものが多い。伊勢神宮の西10kmの所にある明和町には、七世紀後半の天武天皇時代から南北朝時代まで約660年にわたって「斎宮」と呼ばれる宮があった。斎宮は天皇の即位ごとに伊勢に派遣され、伊勢神宮に仕える斎王の御殿と官人の役所があった所。
更新日:2018/10/04続きを読む歴史街道推進協議会はパナソニック創業者の松下幸之助氏が座長を務めていた新政策研究提言機構「世界を考える京都座会」から1988年に出された「歴史街道づくりの提言」の推進母体として1991年に発足したことに始まる。中央省庁、地方自治体、民間企業、各種団体等約190団体の法人会員と、2,000人近い個人が参加する「歴史街道倶楽部」で歴史街道構想実現に向け取り組んでいる。
更新日:2018/09/21続きを読む昨今、何かと話題になるインバウンド。前年2017年の実績は約2,700万人で、来年のラグビーワールドカップ、その翌年の東京オリンピック・パラリンピックと国際的なビッグイベントの国内開催が続くことで、国は、訪日外国人旅行者数を2020年に4千万人、2030年に6千万人、また、その旅行消費額を2020年に8兆円、2030年に15兆円とする目標として掲げている。
更新日:2018/09/06続きを読む昭和の戦前から戦後にかけて日本の庭園界に大きな足跡を残したのは、重森三怜(1896~1975)である。岡山に生まれた重森は、画家を志して上京するが、関東大震災で帰郷を余儀なくされる。1929年、京都に移住してからは茶や生花などの伝統芸能の実践・研究に取り組みながら、庭園研究に力を注いだ。私財を投じて全国の350近くの庭園を自力で実測、その成果を『日本庭園史図鑑』として刊行するなど日本庭園の体系化にも尽力した。
更新日:2018/08/09続きを読む七代目小川治兵衛(1860~1933;屋号「植治」)は、近代日本庭園の先駆者とされる作庭家で、本名は源之助といい、乙訓郡神足村(長岡京市)生まれ、明治10年にその才能を見込まれ江戸中期から続く植木屋治兵衛である小川家の養子となり、明治12年(1879)に七代目小川治兵衛を襲名する。
更新日:2018/07/19続きを読む明治維新により幕を開けた明治時代は社会の仕組みが一変し、西洋文明が堰を切ったように流入してきた。文明開化の流れは庭園界にも押し寄せ、江戸時代を通してややマンネリ化した神仙蓬莱などの伝統的技法は敬遠され、それまで伝統を踏襲してきた日本庭園の世界にも新たな潮流が生まれる。
更新日:2018/06/28続きを読む桂離宮とともに江戸時代初期の公家の世界を代表する修学院離宮は、桂離宮より約30年後の17世紀中頃に後水尾上皇の山荘として築造された。建築・庭園は上皇自身の設計により地形の雛形をつくり、一木一草(いちぼくいっそう)にいたるまでそれを基にして工事を進めたという。
更新日:2018/06/14続きを読む京都の桂離宮は修学院離宮とともに江戸時代初期の公家の世界を代表するもので、それぞれの庭園は、これまで培ってきた庭園文化の集大成といえる。そこには当時の粋を尽くした美しさがあり、日本庭園界に与えた影響は絶大である。
更新日:2018/05/29続きを読む【第3章 シニアのためのセカンドライフ】第五十二回 セカンドライフビジネスに必要な知識(36) 企業におけるシニアのセカンドライフ
更新日:2018/05/22続きを読む江戸時代になり、ようやく戦乱のない平和な世を迎えると、各地の大名たちは権威を保ちつつ、武士階級としての教養を高め、一種の大名芸術ともいうべき文化が花開いた。
更新日:2018/04/26続きを読む美術史では、1615年の豊臣家滅亡までを安土桃山時代と称するのが一般的で、特に「桃山文化」「桃山美術」などと言う場合、秀吉が覇権を握った天正半ばから文禄を経て慶長の終末に至るまでを時代区分としている。それは政権の在り処に関わらず、秀吉や同時代の有力者が好んだ華やかな空気が、なお日本を支配していたと認識されているためである。
更新日:2018/04/05続きを読む護岸石組や豪快な鶴亀石組を創造した安土桃山時代は、一方で詫び・寂び・幽玄の庭である茶庭(露地)を生みだした。茶の湯の成立は室町時代末期と考えられており、この頃に村田珠光が四畳半の茶室を初めて建てたとされている。安土桃山時代を迎え、武野紹鴎や彼の弟子で侘茶を大成した千利休の登場によって、独立した草庵の茶室と小庭が造られるようになった。
更新日:2018/03/22続きを読む安土桃山時代は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三雄が天下統一を争った戦乱の世で、室町幕府が消滅した1573年から関ヶ原の合戦の1600年までをいい、その間わずか28年にすぎない。安土桃山時代には、中世を通じて発展してきた書院造りが建築様式として最終的に確立し、建物内での主客の位置が固定することになる。
更新日:2018/02/14続きを読む室町時代の庭園史上特筆すべきことは「枯山水」の発展である。「枯山水」という名称はすでに平安時代の『作庭記』にも登場しているが、それは池を中心に展開される寝殿造り庭園の部分的な手法であり、あくまでも水のないところに立てられた石あるいは石組という意味である。それに対して室町時代以降の「枯山水」は意図的に水を用いず、石と砂により自然景観などを象徴的に表現する「庭園様式」としての枯山水である。
更新日:2018/01/23続きを読む金閣寺とともに室町文化を代表するのが、室町幕府の第8代将軍義政が営んだ銀閣寺。公家文化と武家文化、さらに禅僧のもたらした中国文化などが融合し、後世に大きな影響を残した東山文化が花開いたのがこの義政の時代である。東山に位置する銀閣寺は、京都の東大文字山の西麓にあり、義政が晩年に住んだ山荘・東山殿を没後に寺院に改めたもので、寺の正式名称は「慈照寺(じしょうじ)」という。中心となる観音堂が、江戸時代頃から金閣と対比されて「銀閣」と呼ばれたため、現在では通称銀閣寺として知られている。
更新日:2017/12/21続きを読む金閣寺の通称で有名な鹿苑寺は、室町幕府3代将軍であった足利義満の北山殿(北山山荘)がその死後に相国寺系の禅寺となったもので、その前身は、鎌倉時代初期、景勝地として知られる北山の衣笠山麓に西園寺公経(さいおんじきんつね)が造営した北山第(きたやまだい)である。1397年、義満は領地交換により西園寺家からこの北山第を譲り受け、北山殿を造営した。
更新日:2017/12/07続きを読む京都屈指の名勝地・嵐山の程近く、桂川東岸に立地する臨済宗天龍寺派の大本山、天龍寺。西芳寺からは桂川をさかのぼり、渡月橋を渡って数分のところに位置する。足利尊氏が征夷大将軍となった翌年1339年に吉野で崩御した後醍醐天皇の菩提を弔うために、尊氏により創建された。夢窓疎石が尊氏に敵対していた天皇を弔う菩提寺として天龍寺の建立を強く勧めたことによる。
更新日:2017/11/16続きを読む貴族階級が国を支配した平安時代に対し、鎌倉時代は自ら耕した農地の所有権を武士が主張し、国を動かすようになり、武家の隆盛と軌を一にして禅宗が隆盛する。こうした社会の変動は人々の生活様式や宗教、芸術にも深い影響を及ぼした。武家政権の樹立とともに鎌倉が政治の中心となるが、庭園の文化の中心は依然として京都にあった。建築様式では、平安時代の寝殿造りから今日の和風住宅の基礎となる書院造りへと変わっていくが、寝殿造り庭園の様式は衰退に向けた変容を見せつつも存続し、郊外の景勝地に別荘を営み庭園を築くという文化もまた有力貴族を中心に続いていく。
更新日:2017/11/02続きを読む吉田兼好が『徒然草』の中で「家の作りやうは、夏をむねとすべし」と記しているように、はるか昔より日本の夏はかなり蒸し暑い。そんな夏を少しでも涼しく過ごそうと工夫された貴族の住宅が「寝殿造り」の館である。建物は南側を大きく開け、風通しをよくし、さらに邸内に水を引き、涼をとっている。敷地(標準は約120メートル四方)を築地塀で囲み、北半分に寝殿を中心とした建築群、南半分に池泉庭園を配し、その中間にある寝殿の前(南)には儀式のための白砂の広場が設けられた。
更新日:2017/10/19続きを読む日本庭園は水・石・植栽及び景物(燈篭、石垣などの点景物)の組み合わせから成り立ち、時代によりさまざまな様式を生み、新しい景観を造りだした。
独自の様式を持つ「日本庭園」のデザインが確立された時期については、国風文化が確立され花開いた平安時代をイメージする人が多い。
「日本庭園」と聞いて想い起す庭園は、人によって様々だ。池の庭もあれば、枯山水もあり、あるいは露地ふうのものもある。見かけの上では相当異なるものであるが、いずれも日本庭園である。それは、日本庭園という概念が特定の様式を指すのではなく、日本のそれぞれの時代の社会や文化のなかで産み出され、育まれてきた各種の様式の庭園を含むものだからである。
更新日:2017/09/21続きを読む城陽は、「南山城地方」と呼ばれる京都以南の地のほぼ中央部に位置する。市域西側を木津川が北流し、東部から南東部にかけては丘陵地、山地が広がる。
市内には、縄文時代の遺跡をはじめ、古墳や神社・寺院跡など貴重な遺跡や文化財が数多く点在しており、郡役所跡である正道官衙(しょうどうかんが)遺跡などから、早くから南山城地方の要衝の地として栄えたことが伺える。
大阪の天下茶屋は秀吉ゆかりの地として歴史的にも有名なまちだが、天下茶屋の地名は、かつてこの地にあった茶屋の名に由来する。この辺りは、古代には「天神の森」と呼ばれる鬱蒼とした森の鄙びた土地だったが、応永年間(1394~1428)に京都・北野天満宮の分霊が奉祀され現在に至る。現在の本殿は1702(元禄15)年に造営されたもので、境内には樹齢600年以上というクスノキの大樹が茂る
更新日:2017/08/25続きを読む今年は神戸港開港150年にあたり港神戸が何かと注目をされているが、神戸は鉄道の駅としても日本有数の歴史を誇る。新橋・横浜間に日本初の鉄道が開通したその2年後、1874(明治7)年に国内で二番目の鉄道となる大阪-神戸間の開通に合わせて旧国鉄神戸駅は開業する。
その後、神戸以西の鉄道延長をにらんで駅の拡大が行われ、1889(明治22)年3月に貴賓室を備えた2階建て煉瓦造りの二代目駅舎に生まれ変わる。同年7月には東海道線が全通し、1906(明治39)年山陽鉄道が国有化されることで、神戸駅は東海道線の終点、山陽線の起点という、鉄道主要幹線の接続駅となり全盛を極める。
古くから神々が鎮座する特別な地域として崇められた紀伊山地。仏教ではこの地は「浄土」であり、山岳修行の場であった。甦り・再生を願い、人々は京をはじめとした全国各地から、はるかなる熊野の地を目指した。
和歌山・奈良・三重にまたがって険しい地形が連なり、独自の発展を遂げた「高野山」「吉野・大峰」そして「熊野三山※①」の三つの霊場※②が誕生し、それらを結ぶ参詣道熊野古道※③が形づくられた。
間もなく梅雨が明け、いよいよ本格的な夏が到来する。強烈な日射とうだるような暑さが続く日本の夏。この頃になると、「氷」と書いたのぼりをみるとちょっと涼しさを感じる。冷たいかき氷を食べて一休み.・・・夏ならではの楽しみだが、このかき氷、実は冷凍庫がある現代だけの食べものではない。
清少納言の『枕草子』「あてなるもの(上品で貴重なもの)」の段に、「削り氷(ひ)にあまづら入れて、新しき金鋺(かなまり)に入れたる」と記されている。意味は「削り氷に甘葛(あまづら)の汁をかけて、新しい金属の碗に入れてあるもの」。平安貴族が、涼やかなかき氷を楽しんでいた様子が伺える。
京都・祇園は、舞妓さんが行きかう情緒あふれる街並みで、世界中の観光客が集まる日本を代表するスポット。鴨川と八坂神社のあいだに広がる日本一の「花街(かがい)」を抱え、「コンチキチン」の祇園囃子が奏でられる祇園祭は、大阪の天神祭りと東京の神田祭(山王祭)と並び日本三大祭りにも数えられ、京都の夏の風物詩でもある。京都随一の繁華街・四条河原町も隣接しており、年中人通りは絶えない。
更新日:2017/06/21続きを読む大阪市天王寺区夕陽丘町。大阪市内を南北に走る松山筋と谷町筋に挟まれ、夕陽丘町を中心とした周辺一帯は、その昔上町台地以外が海だった時代には水平線へ沈む夕日がとても美しかったという。
地名の夕陽丘は歌人藤原家隆の歌「契りあれば 難波の里に 宿り来て 波の入り日を 拝みつるかな」が由来といわれている。
兵庫県西宮市は、関西住みたい街(駅)ランキング4年連続トップの「西宮北口」とベスト10常連の「夙川」を抱え、「住んでみたいと思う行政市区」でも4年連続トップとなる人気の都市だ。
歴史文化の豊かさに加えて、山と海にはさまれて自然にも恵まれている。関西の二大都市である大阪と神戸の間に立地、阪急・JR・阪神の鉄道三線が並走し、ヒト・モノ・カネ・情報が絶えず活発に交流。日本酒やスイーツに代表されるご当地グルメも有名である。
五條から熊野に至る国道168号はかつて西熊野街道と呼ばれ、周辺は、山岳・温泉・清流といった豊かな自然の中に、奈良時代以来の山岳信仰や中世の南朝遺跡、幕末の天誅組本陣などの歴史資源が点在する地域です。
古代から現代まで、人々はここを訪れ、豊かな自然の中で傷ついた心と体を癒し、再生を図ってきました。
紀伊半島中部に位置し、周りを近畿最高峰八経ヶ岳をはじめとした標高1,000〜2,000mの「近畿の屋根」大峰山系の山々に囲まれた天川村は、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成要素である大峯奥駈道が通るまち。標高約800mと空に近く、山からの清流でうるおっています。
京都の北部に位置する京丹後市は、平成16年、峰山町、大宮町、網野町、久美浜町、丹後町、弥栄町が合併して誕生しました。豊かな自然景観を誇る山陰海岸ジオパーク(※)の一部であり、日本最古級の製鉄物づくりの遺跡が残る場所です。今回は、日本海側の久美浜、網野、丹後のまちを訪ねます。
更新日:2017/04/14続きを読む兵庫県の東播磨地域の内陸部に位置する多可町。平成17年、多可郡の中町・加美町・八千代町が合併して誕生しました。周囲を中国山地の山々に囲まれ、四季折々の自然風景と歴史を楽しむことができるまちは、播州歌舞伎などの伝統芸能をもち、酒米の最高峰「山田錦」、日本一の手すき和紙「杉原紙」などの特産品や、国民の祝日「敬老の日」の発祥の地としてまちをPRしています。
更新日:2017/03/21続きを読む三重県津市は、日本を代表する貿易港「日本三津」の一つとして栄えた平安時代、伊勢国司北畠氏の本拠として美杉地域に大きな中世都市を形成した室町時代、築城の名手である藤堂高虎が津城を中心とした城下町・宿場町として発展させた江戸時代など、それぞれの時代に重要な役割を果たしてきました。
更新日:2017/02/14続きを読む福井市は、九頭竜、足羽、日野の三大河川によって造られた扇状地である福井平野に位置します。
中世には、市街地の南東にある一乗谷に居を構えた朝倉氏が5代103年間にわたり、越前の国守として広大な地域を支配し、一乗谷は小京都と呼ばれるほどの栄華を極めたと伝えられています。ここは、戦国時代を戦った、さまざまな「人」のドラマと出会えるまちです。
世界遺産登録12周年をむかえる「紀伊山地の霊場と参詣道」。高野山、熊野三山、吉野・大峯の三つの霊場と、これらをつなぐ参詣道が含まれています。平安時代、皇族や貴族、武士の間ではじまった熊野信仰は、やがて「蟻の熊野詣で」といわれたほど、一般庶民にまで広がっていきました。男女を問わず、貴賤を選ばず…と多くの人々を受けいれた熊野には今も多くの人々が訪れています。
更新日:2016/12/15続きを読む梅田・大阪駅から南へ。中之島・北浜界隈には、江戸から明治、大正と大阪の近代化を象徴する建築が数多く残されているのをご存じですか?大江橋を渡った西側にあるのが日本銀行大阪支店。旧館は、緑青の色が美しい円屋根を持つレンガと石造りの洋風建築です。明治36年、ベルギーの国立銀行をモデルに建てられました。
更新日:2016/12/01続きを読む「時は元禄15年12月14日…」。名調子で語られるのは、ご存知、赤穂浪士討入りの場面。大石内蔵助ら四十七義士が、主君のかたき吉良上野介を江戸本所・吉良邸で討ちとった日です。仮名手本忠臣蔵をはじめ、多くの映画、テレビ等の素材としてとりあげられている忠臣蔵。
更新日:2016/11/17続きを読む滋賀県大津市。琵琶湖の西に位置する比叡山に建つ天台宗の総本山・延暦寺は世界文化遺産に登録されています。
更新日:2016/11/04続きを読む京都市の西、大阪府と接する位置にある京都府長岡京市。8世紀後半、ほんの一時の栄えた「長岡京」は市の名前の由来となっています。
更新日:2016/10/20続きを読む稲荷といえば、伏見稲荷大社。全国に3万社あるといわれる稲荷社の総本宮です。トリップアドバイザーで外国人が訪ねてみたい場所2年連続一位になったこともあり、外国からの観光客も多くまた、商売繁盛の神としても信仰されていることから、スーツ姿の参拝客もよくみかけます。
更新日:2016/10/06続きを読む高槻市は、大阪と京都の中間に位置し、淀川、西国街道など水陸交通の要の場所として様々な歴史が残されています。JR高槻駅から北へ、商店街を抜けると、そこは西国街道の宿駅・芥川宿。宿の東口にあたるところには芥川の一里塚が残されています。一里塚とは、1里(約4km)ごとに街道に設けられ、エノキの木などを植えて路程の目印としたもので、高槻市内では芥川宿東口の東側だけが残され、府の史跡に指定されています。
更新日:2016/09/23続きを読む阪急「梅田」駅、JR大阪駅から電車で約30分。都会から次第に田園風景となり、車窓の両側に山と川が迫ってくると、そこが京都府大山崎町です。天王山と淀川に挟まれた狭隘な地形に、阪急、JR、新幹線が走り、西国街道を挟んで、国道171号と名神が通る、日本でも有数の交通の要衝です。大山崎町と言えば天王山。天王山といえば、天下分け目の山崎合戦があった場所として有名です。
更新日:2016/09/08続きを読む室町時代中期、山名持豊(後の山名宗全)が築城したといわれる竹田城。城の築かれている山全体が、虎が臥せているように見えることから「虎臥城(とらふすじょう・こがじょう)」とも呼ばれています。標高354メートルの山頂に建てられた城の規模は、南北400メートル、東西100メートル。1580年、織田信長の命を受けた、豊臣秀吉の但馬征伐で落城しました。
更新日:2016/08/25続きを読む橿原市は、奈良県の中央北側に位置し、東は桜井市、西は大和高田市、南は高取町・明日香村、北は田原本町と接しています。万葉の時代を偲ばせる大和三山(畝傍山、耳成山、香久山)の中央には約1300年前に、日本史上最初の条坊制によって造られた本格的な中国風都城・藤原宮跡があります。ここは、古代、国会形成に関わる歴史資産が数多くのこされた地域です。
更新日:2016/08/04続きを読む1300年前の古都・奈良。広大な都、平城京の羅城門があった場所といわれるのが、現在の大和郡山市です。大和郡山と言えば、戦国時代、筒井順慶が築き、豊臣秀吉の弟、秀長が百万石の城として大増築した郡山城。「内々の儀は宗易、公儀のことは宰相」と言われるほど、秀吉を影から支えたのが、豊臣秀長(宰相)でした。
更新日:2016/07/21続きを読む大阪府の北部に位置し、南北に長く5市1町に囲まれた茨木市。実は日本でも有数の古墳群地帯で、古墳時代の初期から末期までの各時代の古墳が現存しています。また、中世以降、市の中央部を東西に走る西国街道の往来がさかんとなり、人・モノ・情報が集まりました。隠れた歴史スポットをめぐるまち歩きはいかがですか。
更新日:2016/07/07続きを読む大阪府の南東部、金剛生駒紀泉国定公園を東に望む大和川と石川の合流点の西側に、古市古墳群があります。羽曳野市と隣接する藤井寺市にまたがる古市古墳群は、前方後円墳、円墳、方墳など、130基あまりから構成され、そのうち、墳丘長200メートル以上の巨大な前方後円墳は7基あり、ここは文字通り大王たちの眠るまち。
更新日:2016/06/23続きを読む大阪府箕面市の南東に位置する小野原から萱野にかけては、昔ながらの門構えの家や道端にたたずむお地蔵さん、石の道標など、昔の街道の面影が色濃く残る地域です。 阪急バス「小野原バス停」から国道を離れ、西国街道へ。少し茨木市よりに東へ行くと、「左 京ふしみみち」と書かれた道標と常夜灯がたっています。この先にある稲荷神社として知られる須賀神社は、春日神社の祭礼の神輿を迎える御旅所で、境内には、神輿を置く台座があります。
更新日:2016/06/09続きを読む三重県の西部、伊賀地域に位置する名張市は、江戸時代、名張藤堂家の城下町として栄えた町。名張藤堂家は、織田信長の重臣丹羽長秀の三男で藤堂高虎の養子となった高吉に始まり、寛永13年(1636)以来、名張に屋敷を構えました。
近鉄名張駅から歩いて10分ほどのところに建つ名張藤堂家邸は、城下町として栄えた頃を偲ばせる建物。
京都府北部、大江山連峰をはじめとする山並みに抱かれた与謝野町。春は新緑、夏はハーブやひまわり畑、秋は黄金色の稲穂など、四季折々に美しいエリアです。
町の特産品は、丹後ちりめんに代表される絹織物とコシヒカリなどのお米で、とりわけ丹後ちりめんは昭和40年代に最盛期を迎えるまで、まちの主要産業でした。
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